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何故そんなことを考えはじめたのか、はっきりしない。
以前、外出先で食堂に入った。テレビでは小泉八雲の特集をやっていた。
NHKが放映していたドラマのヒロインが、小泉セツをモデルにした設定だったので、
その宣伝も兼ねていたのかもしれない。
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昔読んだ『耳なし芳一』を思い出した。
どうして僧侶が経を書き忘れたのが、「耳」だったのだろう。
現実としては、もっと他に見落としやすい箇所もありそうなものだと、
そんなことを考えていたら、注文した定食が来た。
食べはじめて、そのときふと、
「そういえば、普段から耳は印象に残らないな」
と思ったのである。
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考えてみると、人は対面した相手の耳に意識を向けることはほとんどない。
意識を向けるとすれば、それは耳のかたちが目立つときだけだ。
― 耳たぶが厚いとか、真っ赤になっているとか、耳毛が見えるとか、耳飾りがどうのとか。
けれど、そのようなときでさえ、耳介そのもののかたちに意識が向けられているわけではない。
顔の印象を強く映す女優やアイドルでさえ、その耳のかたちをわれわれはほとんど見ていない。
つまり耳は、つねに意識の外へ退いているのである。
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耳介には個体差があり、生体識別の一助として用いられることもあり、
成人後の形状は比較的変化しないともいう。
格闘技などによる耳介血腫は、もちろん例外である。
耳介にも、身長や体型や顔貌と同じく、個体差があるのは事実なのだろう。
思い返せば、身体の末端には個体差が出やすいようにも思う。
鼻、耳介、指先、生殖器、足先。
けれど、生殖器には禁忌や秘匿があるのに対して、
耳介を含む他の身体の末端について社会は露出を禁じていない。
そのなかでも耳介は、顔の近くでつねに他者の視線に晒されている。
個体差があるわりには、ほぼ剥き出しのままだ。
それでいながら、他者も自身も、それを見ることが少ない。
何故そのようなのだろう。
少なくとも耳は、文化的象徴として強く意味づけられていないように見える。
顔面の近くにありながら、その構造の主役には加えられていない。
身体の線上にも浮上しない。そうして、視点の主体にもならない。
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ふと思い浮かんだのが三木富雄である。
半世紀ほど前に四十代で亡くなったこの彫刻家は、
耳のオブジェを、石膏のみならず金属や合成樹脂、さらには素描や版画に至るまで、
多数の媒体を使って制作している。
三木は耳について、後年には
「耳が私を選んだ」
とも語り、また別の紹介では、
「あるとき耳を選んだんです」
という趣旨の言葉も伝えられている。
ネットで彼の作品を見てみると、
原寸大のものから拡大縮小したものまでサイズは多岐のようだが、
その形は意外なほど尋常である。
晩年には内耳を含めた作品もあるという。
思うに三木は、最初から耳に運命を感じたわけではないのだろう。
他人が主題にしないもの、解釈の手垢のないもの、
しかも表象として強い印象を抱かせるものを探すうちに、
偶然耳に行き着いたのではないかと思う。
耳はいつも露出していながら、ほとんど見られない。
そうしたひそやかさに、芸術家の直観が働いたのかもしれない。
制作してみると三木は耳に、意味づけより先に引き込まれてしまったのだと思う。
そこにあったのは思想ではなく、だれも主題にしないわりには感覚を離さない、
そんな魅力に捉われたのかもしれない。
定食屋で私がふと、
「耳は印象に残らない」
と思ったのと通じるものがある。
表現として耳介がどう扱われてきたか興味が湧いた。
ほかの芸術を調べてみることにした。
芸術といってもあまりに広いので、自分なりに分野と時代を区切って見てゆくことにした。
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まず小説を見まわしてみた。
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「耳なし芳一」 小泉八雲。
「夜長姫と耳男」 坂口安吾。
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やはり少ない。
いずれも、耳介そのものを思想として主題化しているわけではない。
定型表現として、
耳を澄ます、耳を赤くする、耳もとで囁く、耳に息を吹きかける、などがある。
感覚から感情へ、あるいは官能へと、その用途はひろがっている。
けれど、小説のなかで耳は、身体の一部として現れることはあっても、
それ自体が強い象徴を帯びることは稀である。
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詩ではどうか。
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『私の耳は貝の殻
海の響きを懐かしむ』
ジャン・コクトー、堀口大學訳
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『あなた(オルフォイス)は彼らのため聴覚の中に一つの神殿を作った』
ライナー・マリア・リルケ、高安国世訳
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コクトーもリルケも、邦訳にはそれぞれ感性の意匠はあるのだろう。
けれど、原詩の大意の方向は失っていないように思う。
肉体の一部である以上に、音の入口として、
あるいは内面へ通じる裂け目として表現しているように見える。
耳そのものの外観を身体の象徴として扱ってはいない。
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絵画や彫刻も見まわしてみた。
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髪に隠れている、もしくはほとんど描かれていないものとして、
「ヴィーナスの誕生」 ボッティチェリ
「真珠の耳飾りの少女」 フェルメール
「ミロのヴィーナス」
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ごく普通の耳介として描かれているものとして、
「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」 ルノワール
「小椅子の聖母」 ラファエロ
「耳」 三木富雄
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強調、もしくは特異なものとして、
「弥勒菩薩半跏像」 広隆寺
「耳を切った自画像」 ゴッホ
「鎌倉大仏」 高徳院
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私の視覚にとまったのは、
ラファエロの「小椅子の聖母」と、広隆寺の「弥勒菩薩半跏像」である。
ラファエロの聖母の、やわらかで清楚な面立ちに描き添えられた耳は、
なぜかひどくなまめかしく見えてしまう。
けれどもやはり聖母像らしく、耳朶に耳飾りはない。
ルノワールの「イレーヌ嬢」にも、また官能性というものにおいては三木の作品群にも、
どこか通じるものをなぜか感じた。
一方、広隆寺の半跏像の耳は、仏像らしく長い耳朶を備えている。耳介そのものも大きい。
中宮寺の半跏像になると、その大きさはさらに強調されている。
仏像がある二つの寺院は聖徳太子に由縁がある。
ちなみに法隆寺の聖徳太子像を見てみると、その耳は、
「豊聡耳」と呼ばれた故事を思えば、むしろごく普通に見える。
少なくとも「豊聡耳」という呼称は、
多くを聞き分ける霊威や受容力の比喩として働いているようである。
仏像の長い耳朶とは、どこか別の系統に属しているように思われる。
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耳は、聴覚と平衡感覚に関わる器官であるという。
耳介は音を受け、内耳は平衡感覚や回転感覚をつかさどる。
それでいながら、耳は恒常的に働きつづけながら、その姿を視界から消している。
露出していることによって、社会的禁忌とも衝突しない。
人の意識の外に、剥き出しのまま置かれているのである。
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よくよく考えてみると、耳は、
短く視野に入るかぎりでは人の顔貌のうちに自然に収まっている。
けれども、それだけを取り出して見つめつづけると、
その形はしだいに視覚の持続に耐えきれなくなってゆく。
耳介は、顔の一部としてその調和のうちに属しながらも、
単独では凝視に耐える象徴性も、
また官能に支えられた視的吸引力も持っていないのである。
そのため耳は、重要な器官でありながら、
つねに見えていて、なお見つめられないものとして背景へ退いている。
恒常的に他者にひらかれながら、その存在を消しているといってよい。
人間の摂理のようなものと結びついて、あえてその姿を人の視界から消しているのかもしれない。
われわれが耳介の存在に気づくのは、
もしかすると身体の秩序がふと崩れるような、ごくかぎられた一瞬においてだけなのかもしれない。
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そうやって人の意識の外に退いた耳介とともにわれわれは、
身近な人のそばでその深い沈黙に耳を澄ませてきたのかもしれない。
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こうして芸術を通して耳を見わたしても、文化論にも身体論にもなりきれないのだが、
最後に極言めかしてあえて言うとすれば、
意識から外れて居つづけること、それが耳にとっての本望なのかもしれない。
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その人の左耳にある細孔は、
生まれつきのものだという。
いつの日だったか、
見せてもらったことがある。
そのとき私は、
髪をかき上げて、
その人の耳のかたちを、
ながく、たしかに眺めていた。
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ふと、何の前触れもなく、
そんな景色だけが甦った。
その人の面影のなかに、
もうあのときの耳のかたちは、
ひとかけらも残っていない。
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二十六年四月十五日


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