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昨今の炎上騒ぎを目にすると、思い出す絵がある。
エドゥアール・マネの《オランピア》である。
サロンに展示された際、観衆はこの絵の前で激しく憤ったと伝えられている。
裸体であることが問題だったからではない。
裸体画なら西洋絵画には古来から題材として普通に存在する。
観衆が反応したのは、この絵の裸体が生身の女性だったことと、
その娼婦と思われる人物の眼差しがこちらを見つめていたことによる。
《オランピア》という名は当時、娼婦を連想させる響きがあったという。
西洋絵画の伝統では、絵画中の裸体像は神話や寓意の人物であるという建前があった。
画面を叩く等の行為もあったらしく、保護のために作品は高所へ移されたとも伝わる。
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《オランピア》は近代絵画の起点のひとつとして語られる。その先進性は三点であるという。
一点目は、奥行きのある西洋絵画の伝統を平面に捉え直したこと。
二点目は、神話の人物ではない裸体像を大胆に描いたこと。
三点目は、その裸身の女性の視線が恥じらい等を感じさせずこちらを見つめていること。
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ボッティチェリやカバネルの《ヴィーナスの誕生》などと呼ばれる系譜の裸体絵画は、
言うまでもなく生身の女性ではない。
彼女たちは女神である。伝統的な美を与えられた神話中の人物である。
見る者は、それによりその裸体を鑑賞しうる対象として捉えるのである。
つまり、生身の女性ではないという建前が絵画と鑑賞者の間にある。
《オランピア》は、その虚飾を剝ぎ取った。
ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》のような構図を借りながら、
神話の舞台に生身の裸体を置いたのである。
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裸体の写真や映像が当時ほど新奇でない現代においても、《オランピア》には、
長く見つめていられない居心地の悪さがある。秘匿や禁忌に触れたようなそんな感覚に陥る。
おそらくそれは、彼女の眼差しから来ているように思う。
裸体の彼女は何かこちらの返答を待っているような眼差しをしている。
当時の大衆が憤った一番の原因はこの眼差しにあるのかもしれない。
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ゴヤの《裸のマハ》と《オランピア》の違いも、そこにあるように思う。
《裸のマハ》も、神話の名を外した現実の女性の大胆な裸体像である。
けれど、その視線はこちらに何かを要求しているようには見えない。
それゆえに《裸のマハ》の裸体は、隠された私的な空間にある体裁を保っている。
鑑賞者は、彼女の居る個室の中に共にとどまっている。
《オランピア》は、そうではない。彼女のいる舞台は、大衆の面前に開かれている。
大通りに面した洒落たブティック街のショーウィンドウのような明るさがある。
その内側から彼女はこちらを見ている。
言ってみれば、《オランピア》は、裸体を見る者の視線を見せてしまっている。
つまり、裸身を見ている自分の内面を、見せられているように感じてしまうのである。
この絵の居心地の悪さはそこにあるように思う。
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当時の観衆の激しい憤りの裏には、そのような感覚があったのかもしれない。
公序と品格の名で彼らは《オランピア》を拒絶した。
けれども実は、拒絶が過剰であればあるほど、束縛されている内心を、
逆に示しているとも言える。無関心なものに、人はそこまで感情を露わにすることはない。
現代のSNSの炎上にも、似た心性がある。
人々は「許せない」と言いながら、その対象を見続け、語り続け、拡散してゆく。
拒絶とは、必ずしも対象からの解放ではない。
時にそれは、対象に絡め取られていることの現れにもなる。
《オランピア》への嫌悪の底にも、単なる道徳的忌避だけではなく、
生理的な反応を拒もうとする心情があったように思う。
観衆は、彼女の裸身だけを拒絶したのではなく、
裸身を見る自分自身の視線に耐え得なかったのである。
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マネはおそらく、神話に溶かさずに女性の裸体を描いただけなのだろう。
しかし、現代においても《オランピア》が、完全に消化しきれないのは、
この絵が禁忌の側面をその眼差しにより、いまも持続しているからかもしれない。
美術史は、この絵を至宝として認めている。
けれども、それを見る身体のほうは、完全には受け入れ切れていないのである。
社会は、良識や禁忌の急激な露出に耐え難い。
耐え難ければ、黙って目を逸らすこともできるが、しばしば社会は黙らない。
攻撃し、暴き立て、排除しようとする。
その過激さが、かえって対象への束縛を露わにしてしまう。
そんなことを考えながら、《オランピア》の眼差しをあらためて見てみると、
彼女の瞳には憐れみがあるように感じる。
それはティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》や、
ゴヤの《裸のマハ》の瞳にはない感情のように思う。
実際に彼女の眼差しに憐れみとも悲しみともつかないものを込めたのかは、
マネ以外には分からない。
けれども、居心地の悪さを越えてそのような感情を受け取れたときに、
この絵の鑑賞は深まるように思えてならない。
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