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城木が通った大学は、世田谷の住宅街にあった。
何かの目的があってそこに入学したわけではない。
生まれた町からも、家からも、離れたかった、それだけである。
駅周辺は若者文化の発信地のひとつとされていたが、憧憬も無かった。
都会へ出て何かをしてみたい、そんなものも持っていなかった。
ただ、なぜかいまも故郷には帰らず、都内の賃貸マンションに居る。
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久しぶりに商談で大学のある駅に降りた。
取引先での打ち合わせが早く終わり、ふと母校を訪ねてみようかと思い立った。
もう何十年も訪れたことがなかった。
駅周辺はすっかり様変わりしていた。大学へ向かう出口が、南口であることだけは同じだった。
大学へは、スマホの地図を頼りに辿り着いた。
キャンパスはすっかり明るく新しくなっていた。
構内を歩く学生たちは、城木の息子や娘よりかなり年下になっている。
来たことを後悔しはじめながら、身を丸めるようにしてざっと構内を見回った。
懐かしさは全く湧かなかった。
スマホで見た大学のホームページには、学食はいまも一般に開放されているとあったが、とても屋内に入ってみる気にはなれなかった。
毎年配布されてくる卒業生会報で眺めていた通り、学食のある建屋は洒落た造りだった。
ひと通り見回って、静かな隅を探した。そうしてベンチに座り、城木はひと休みした。
気が済んだら、駅へ戻ろうと考えていた。
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すると、正門の道からふたつほど外れた路地に、喫茶店があったことを思い出した。
そこへ行き、ひと息入れて行こうかと思いついた。
梅雨の明けていない六月末にもかかわらず、日差しはもう真夏のようだった。
喉に冷たいものが欲しかった。
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スマホの地図が示すとおり、喫茶店はなかった。
その場所は、アクセサリーショップになっていた。外から店内を覗くと、商品たちは女性用ばかりに見えた。
少し躊躇したが中へ入ってみると、カウンターの向こうで、女性が明るい声で出迎えた。
城木は思いきって、その女性に話しかけた。
年恰好は城木と同年配に見えた。
仕立てのよい上等そうな服を着ている。
「ええ、たしかにこの場所は以前は喫茶店だったと聞いています。
でも、かなり前にやめられたと。
あたしがこの店を開く前は、空き店舗でした」
「油絵がずいぶんと飾ってあったのです。オーナーが描いたと聞いていました」
「ごめんなさい、わかりません」
女性はすまなそうに詫びたが、城木の近くから退く気配は見せなかった。
小さな小物入れをひとつ買って、城木はそこを出た。
また強い陽ざしが彼を襲ってきた。
自動販売機を探して、麦茶でも買えばいいと、自分をなぐめた。
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あのころ喫茶店には、学生だけでなく、背広をきた勤め人も華やかなOLも居た。
抑えた照明と、それぞれの席がわりと離れているのが心地よかった。
彼は月に数度、そこで、小説を読んで過ごした。
珈琲が美味いのかは、彼にはよくわからなかった。
ただ壁際の席ごとに掛けてある油絵たちは、眺めていると不思議と落ち着いた。
風景が多かったが、人物画も数枚はあった。
レジで尋ねたところ、店のオーナーが描いたのだと教えてくれた。
そのオーナーはいつもカウンターの中で、不機嫌そうな顔つきでコーヒーを淹れていた。
城木は、その人物画の一枚がなぜか気に入っていた。
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その絵の中の女は、和装で畳の間に正座して背を向けていた。
壁際の書卓で手紙を読んでいた。
全体に暗い色彩の絵だったが、彼女の後ろに流した髪を留める簪の赤い装飾が記憶にある。
彼は、その席が空いていると必ずそこに座った。
そこに座っていると、ひどく気持ちが落ち着いた。
学業のことも、財布の薄さも忘れて、店内に流れるジャズに浸れた。
そのときふと、若い娘がいたのを思いだした。
彼女はたまにカウンターのいちばん隅の丸いスツールに座っていた。
もう顔も、姿も、はっきりとは記憶になかった。
その娘はオーナーの次女だと誰からか聞いた。
客が来ると立ち上がり、整った、そうしてつまらなそうな表情のまま、客の注文を聞いていた。
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「そうか、おれがあそこに来ていたわけは、ひとつじゃなかったのか」
戻った駅の構内で、電車を待つ間、彼はふと、内心で昔の自分が可笑しくなった。
電車が来た。
乗り込んで、窓越しに駅名標を眺めた。
「もう来ないだろうな」
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家に帰って、小物入れを妻に渡した。
仕事の付き合いで買った、高いものではないと伝えた。
腑に落ちない妻の面持ちに、ふときょうのことを話しかけたが、すぐに思い返して黙った。
昼間のことも、妻の疑いを解くのも、急に億劫になった。
ひどく眩しい陽射しだけを思い返していた。
そうして、梅雨の雨の少なさと昼間の街の暑さだけを口にした。
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