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「三浜のDロットを、まず当たってみます。もしそれで適合がなければ、全タイプを調べてみます」
袖ケ浦のバスターミナルへ戻るタクシーの中で野上が云った。
玲奈は小さく頷くと、総務を必ず通すようにと返した。
そうして、提携している大学の研究室には、自分から先に相談を通しておくとも伝えた。
「承知しました」
野上は胸元の鞄を抱え直した。
去年、野上は玲奈の元へ配属されてきた。年齢も職歴も覚えていない。
ただ気弱さと優しさが顔つきにある。
担当させた商品試作に現場が難色を示していると聞いて、竹芝の開発本部から査察に来た。
袖ケ浦の開発センターはいつも戦場になってしまう。
優しさは時として業務の障害になる。玲奈は野上にそれを感じる。
けれど、人事部は配置した。来た者を動かしてゆく、それが玲奈の役割だ。
二年前に玲奈は、三十三歳で開発部の次長になった。
異例の昇進と囁かれたが、感じるものはなかった。企画を何度か成功させた、それだけだ。
シートに頭を付けたまま、窓外に目を移した。
「都内より、息がしやすいように感じるわ」
「ええ、ぼくも感じます」
議論のあとは虚しさに包まれる。遅れた時間は戻らない。
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四歳の息子の征が去年呼吸器の病気を発症した。
小さな身体で胸をのけぞらせ、息を荒らして苦しむ。玲奈は、一晩中背中をさすっている。
昼間は玲奈の代わりに長野から母が上京して付き添ってくれている。
主治医にそれを話すと、実家に預けるのを検討されてはという。
呼吸器系の疾病には東京を離れるのも緩解に繋がるという。
都内は、征には過酷なのだろう。
母と兄嫁との不仲は知っている。だからそれは難しい。
それに母の年齢を考えれば、いつまでも頼りつづけることもできない。
玲奈もいまの仕事をすぐには離れられない。
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野上との出張から五か月後、袖ケ浦の開発センターで試作品の発表会があった。
軌道を戻すのに二か月近くかかった。
玲奈は竹芝の本部に残り、野上に行かせた。
昼前に野上からメールが送られてきた。
待ちに待った試作品を前にして、気持ちがうわずり、文面の所々に揺らぎがある。
「ばかね」
ひとつ、おわっただけ、それに商品化のほうが外野は多い。そのことは野上も理解している。
謝意と慰労を手短に返信すると玲奈は、メールソフトを静かに閉じた。
「でも、おつかれさま」
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昼休みに少し歩いて海が望める公園に出た。一人になりたかった。
ひろがる空間を、身と心が求めると、ここに来る。
海をみるのは目的ではない。
都市の空間に海は組み込まれ、潮の匂いも遠い。
途中の珈琲店でカフェラテを買い求めた。甘い温かさに浸りたかった。
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公園に着くといちばん外れにあるベンチに向かった。そこが特等席だ。水辺が一望できる。
腰掛けようとした刹那、吐き出すような声を聴いた。
「猫?」
まわりを見回し声の主を探した。するとベンチの裏の植栽の陰に段ボールがある。
そっと中を覗くと子猫が一匹いる。
こちらを懼れて毛を逆立て、あかい口をいっぱいに開き啼いている。黒白のぶち猫だ。
玲奈は佇んだまま一瞬だけ迷い、そしてすぐにスマホをバッグから取り出し、
公園の入り口近くにある交番の連絡先を探した。
「だいじょうぶ、どうにかなるわ」
そうしてその電話が済むと、フロアに連絡を入れ、午後の始業に三十分ほど遅れると告げた。
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十五分くらい待つと警官が来た。面立ちから二十代後半のようにみえた。
玲奈が段ボールのほうを掌で指し示すと、歩み寄って引けた腰のまま覗き込んだ。
そして状況を呑み込むと、玲奈のほうへ振り向いて云った。
「申しわけないですが、警察では遺失物扱いです、あとは保健所の管轄です。
触られましたか?そうですか、病気があるといけませんので」
それから、名前と連絡先を尋ねてきた。
答えを聞きながら警官は、眼を一瞬だけ見開き玲奈の身仕舞いに視線を走らせた。
そうして、手帳に何かを書き足していたが、やがて顔を上げた。
「もうこちらで引き継ぎますので帰っていただいて構いません」
そう告げると、官帽の鍔を指でつまんだ。
「保健所の預かり期間はどのくらいですか?」
「飼い主が見つからなければ、長くて一週間でしょう。厳しいですが」
玲奈は保健所の番号を訊いた。
それから箱の中を、角度を変えながら何枚か撮った。
「なにか伝手でも?」
「いえ、戻って、本部のフロントには」
やがてそれが済むと、最後に警官と子猫のほうに視線で会釈をし、背中を見せて歩き出した。
両手で包んでいたカフェラテの紙カップは、いつのまにか冷えきっていた。
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玲奈は来た道を急ぎ足で戻りはじめた。
公園を抜けて車道を渡り、歩道に出た時、不意にきゅっと、立ち止まった。何かが胸元をかすった。
ずっと足元の先にあった視線をあげた。
風花がそこここに散っている。
翳る陽射しの所どころで雪の欠片が煌めいている。行き交う人たちをよけて路面に落ちて溶けてゆく。
マスクを指で摘まみ、口元を整えなおすと玲奈は、手袋に浮いた水滴を見詰めた。
肩先に白い息が流れた。
それからやがて、街路のずっと先に視線を移すと、再び歩きはじめた。
真っ白だわ、向こうは。
風をはらんだ雪片が、舞い、やがてほどけ、歩道を湿して消えた。
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