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天皇の在り方を、我々の民主主義の枠内に移し替えるというのは、どこか価値の支点が外れているように感じる。
明治期に制度化された近代天皇制は、日本の通史の中に長くあった天皇の姿そのものではない。
それ以前の天皇は、多くの時代において、御所の奥にあり、一般の民には直接見えぬ隠れた存在として、秩序の焦点であり続けていたように思う。
天皇という存在を、従来の「隠れた秩序」としての位相へ、また国家安寧等の祭祀を主とする位置へ、静かに戻すことが日本の将来にとって有為ではないかと考える。
政治的役割を可能な限り外して、「日本が持つ秩序のかたち」として存続させて行く。
そのためには、天皇が我々の前に直接現れ過ぎないこと、まずその距離を取り戻すことから考えるべきではないだろうか。
神代や古代など、遠い時代のことはいずれにせよ、歴史の中に在る天皇は、長く静かな「隠れた存在」であり続けてきたように思える。
それにもかかわらず、その周辺には、いつも過剰な熱量が生じる。そうして、その過剰な熱量は、天皇という存在の中心を正確に照らしているようには感じられない。
なぜそのように感じてしまうのだろう。
国民の主権が確実に保たれているかぎり、天皇という存在そのものが民主制を阻害するとは考え難い。日本人の天皇への眼差しを大きく変えてしまったのは、明治以後、天皇に主権と軍事と国体的宗教性を重ね過ぎた近代天皇制であったように思う。
天皇は、日本人の秩序感覚が崩れきらずに済むため、長くあり続けてきた焦点だと感じる。
例えば、敗戦後の混乱と失意の中で、日本がなお国家の輪郭を失わず立ち直り得た背景には、連合国側の占領政策だけでなく、なお内側において天皇の存続があったことも大きいのだと考えたい。
勿論、それだけだと言い切ることはできないし、またそれは、制度的な肯定論として単純に語り切れるものでもないだろう。
戦後の象徴天皇は、戦前との連続と断絶の両極を含んでおり、一様に語ることはできない。
けれど少なくとも、敗戦後の日本が自らの連続性を完全には失わずに済んだことと、天皇の存続とが無関係だったとは、考えられない。
それにもかかわらず、現在の日本人は、学校教育の中で、国家秩序や信仰的支柱や歴史認識を、思想としても感覚としてもほぼ学んでいない。
そのために、天皇を崇敬か否定かの粗い認識でしか捉えられず、日本の通史においてその存在を正確に捉える機会を持たないままにいると思う。
我々は、賛否を先に立てるのではなく、まず天皇を伝統的存在として、また日本人の秩序感覚に深く関わる焦点として、学び直す必要がある。
とりわけ「近代天皇制」と、「秩序の焦点としての天皇」とは、混同してはならないと思う。
そうして、天皇を見つめ直すということは、日本人の古来からの信仰の在り方や宗教観を学び直すことにも繋がる。
果たして我々が、歴史的に宗教や信仰に無感覚であったのかを、探る道標にもなるように思う。
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