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夏目漱石という人を思うとき、その沈黙の仕方に心を惹かれることがある。
多くを書いた人でありながら、
どこか自分を生身のまま文章に織り込むことを律しているように見える。
近しい人に宛てた私信でさえ、どこか冷えている。それは、情がないということではない。
むしろ逆で、情がそのまま言葉になって溢れないよう、自分の内で一旦受け止め直している、
そんな抑えの気配である。
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漱石は、自分の書くものが後に残ると分かっていたのだろう。
私語に近い言葉でさえそれを記せば、その場で消えることはないと、知っていたのだと思う。
だからこそ、文章の中にいる漱石は、いつも抑制されている。
自分を隠すということではなく、生身のまま自分を文章に織り込むことを抑えている、
そういう厳格さがある。
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けれど、思うのはそこからである。
それほど自分を律した人であるのに、周囲の人々には、同じように沈黙を強いたようには見えない。
むしろ、家族や門人や知友の口からは、「私人漱石」がいくつも残っている。
癇癪持ちの漱石、面倒見のよい漱石、頼れる漱石、家族や門人に厳しい漱石、神経に傷を抱えた漱石。
そこにはいくつもの漱石がいる。
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もし自分を守ろうと思えば、周囲の口を塞ぐこともできたはずだ。
少なくとも、そういう気配を見せることはできただろう。
だが、漱石は喧しくそうはしなかったように感じる。
おそらく漱石は、他人の見た自分を、いくら統制しようとしても、
結局それをしきれるものではないと知っていたように思う。
ある人には冷たく見え、ある人には情が篤く見える。剛毅にも映り、気難しくも映る。
そのずれは、訂正して消せるものではない。
むしろ、人間とはそういう揺れの中にしか現れないものなのだ、と受け止めていたように思う。
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自分が自分を決定的に語らなければ、周囲の回想はすべて断片のまま残る。
どれも現身でありながら、どれも全てではない。
その結果、漱石という人は、読み手の中にひとつの固定した像として立つのではなく、
いくつもの影として沈んでゆく。
言ってみれば、印象が闇をたゆたうのである。だが、漱石はそれを恐れなかったのだろう。
おそらく、人が人を見て取るとは、そういうことだと受け入れていたように感じる。
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それは諦めではない。
周囲に対する深みのある節度のように思う。
自分は自分の筆だけを律する。他人が自分をどう見たかは、その人のものとして返しておく。
介入しない。奪わない。囲い込まない。言葉にすればそれだけのことだが、安易なことではない。
自分の像が他人の中で揺れることに耐えるのには、かなり深い自己認識と、他者への理解がいる。
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漱石は神経質な人だったともいう。
だが、その神経質は、狭さには流れなかった。
外側へは案外腹を据えたところがあったように感じる。
家族や門人には面倒見のよい、頼れる人でありながら、
けれども他人の口封じなどはしない。噂に狼狽などもしない。
気にしないのではなく、知ったうえで、なおそこには手を出さない。
そんな姿勢が、漱石という人の奥行きを作っているように感じる。
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言ってみればそれは、漱石の間合いである。
自分は自分である、他人にはその見え方を返しておく。
近づきすぎず、介入もせず、切り捨てもしない。
それが、漱石の人への距離のかたちなのかもしれない。
声高ではない。説明的でもない。
けれど、その人の距離は奪わない。
そんなふうに思う。
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漱石は、自分の文学や思想に、強固な自負を抱いていたと思う。
家人や知己の感じ方や、噂話の断片くらいで、自分の像は崩れはしない。
世間も後世も、自分をそうした些事によって捉えはしないと、分かっていたのかもしれない。
あるいは、後世が見つめようとするのは、自分が語ったことを越えて、沈黙したことへも向かうと、
そのように見えていたのかもしれない。
穿ちすぎ、思い込みだと言われても、否定はしない、
けれどそうであるとすれば、そうかもしれないと思わせてしまう、そんな凄さが、
漱石にはある。
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二十六年四月三十日
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